連続税務小説 ヤマゲン 第52話 「責任」
2026/02/21
固定資産の話から、三日。
ヤマゲンは、机の上に一枚の紙を広げた。
買掛金台帳。
「まず、
材料仕入先や外注先から届く請求金額を、
相手先別に、
毎月書いていく」
支払ったら、
支払日と支払金額を書く」
「最後に、
まだ支払ってない、
残高を書くんや」
でも、
電話代とか家賃とか、
そんなのは、
買掛金管理の対象外」
掛け取引になっとる、
仕入や外注に
限定して書く」
「なるほど」
「で……今月末、いくらや?」
「……二百七十万です」
「預金残高は?」
「二百二十万」
五十万、足りない。
数字は冷たい。
だが、その向こうには人がいる。
鋼材屋。
工具商。
表面処理業者。
田中は、鋼材屋・山本商店の名前を見つめた。
創業当時からの付き合いだ。
材料が足りなくなれば、
夜でも持ってきてくれた。
実直で誠実な仕入先だ。
入れられへんのか?」
手持ちが……」
静かに言う。
「えっ、
待ってくれって、
電話するんですか」
しゃーないやろ、
そうせんかったら」
こちらを見つめている。
受話器に手を伸ばす。
止まる。
引っ込める。
「どうした」
ヤマゲンの声は静かだ。
「……言いにくいです」
「いつまでも、払えんわけやない」
「でも、今月は、遅れる」
「その“でも”が重いんやろ」
図星だった。
逃げたいわけではない。
だが、関係が変わるかもしれない。
「逃げるな」
短い一言。
田中は、受話器を握った。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
鼓動と重なる。
「もしもし、山本商店です」
いつもの声。
その“いつも”が、胸に刺さる。
「田中です」
喉が乾く。
「今月の支払の件ですが……」
言葉が詰まる。
言えば、借りができる。
それでも。
「五十万だけ、
来月初めまで、
待ってもらえませんか」
沈黙。
長い。
「田中さん」
山本の声が低い。
「今まで、ちゃんとしてくれてるからな」
「来月、必ずやで」
田中の肩から、力が抜けた。
電話を切る。
静寂。
軽くはない。
「忘れたらあかんで」
ヤマゲンが言う。
「待ってもらえたのは、
過去の積み重ねや」
「でもな、
信用は、
たった一回で崩れることもある」
田中は、うなずく。
「ほな、次や」
「……次?」
「得意先の□□精密、
電話せぇ」
「えっ」
空気が変わる。
「いや……あそこは」
「いつも忙しい言うてはるし……」
「アホか」
静かな叱責。
「買掛先には、
電話するのに」
「遅れてる売掛先には、
何もせんと、
ただ待っとるだけか」
ヤマゲンは売掛金台帳を叩いた。
「売掛金は、“お願い”やない」
「契約や」
「法的な権利や」
「払わんのは、相手の不履行や」
夏美が、静かに言う。
「払ってもらわないと、
田中さんも、
買掛先に払えないですよね」
「そや」
「守るためには、
守らせなあかん」
電話のさいごに、
内容証明郵便で請求することも辞さへん、
そう付け加えるんや」
田中は、□□精密に電話を入れた。
「田中です」
「あの……
前からずっとお願いしてる……
入金遅れの売掛金の件ですが……
明日中に入金確認できなければ、
正式な請求手続きに入ります」
声が震える。
後頭部辺りが
キンと張り詰める。
だが、引かない。
「内容証明で
法的に請求することも、
検討しています」
言い切った。
電話を切る。
深い沈黙。
「明日まで待って、
入らんかったら」
ヤマゲンが続ける。
「内容証明を書いたるから、
簡易裁判所内の郵便局に持ち込むんや」
「裁判所内……?」
「そや。
そうしたら、
相手に届く消印がな、
“○○簡易裁判所内郵便局”になる」
「これ、知っとる人は少ない。
でも、効く」
夏美が小さくうなずく。
「本気度が伝わるんですね」
「そや」
「実際に裁判するかどうかは、
また別の話や」
「そやけど、“覚悟”は見せる」
「それが社長の仕事や」
田中は、
売掛金台帳と、
買掛金台帳を見つめた。
売掛金は信用、
でしたよね?」
相手がこちらを認めてくれとる、
信用や」
こちらは常に、その信用を守るための、
”責任”がある」
買掛金台帳も、
まずは、手書きで頭に叩き込むんや」
今一度、田中を見据え、
静かに言った。
覚えるんとは違うんやで」
経営者としての責任の果たし方も、
しっかり頭に叩き込むんや」
いちばん重要な、心臓部や」
法人化なんて、
夢のまた夢や」
ヤマゲンはふいに微笑んだ。
社長の大切な仕事や」
流れは、預金。
信用は、売掛金。
時間は、固定資産。
そして――
その責任から逃げた瞬間、
田中は、確かな目で、
机の上の台帳をじっと見つめた。