TVに映るトランプ大統領をなにげに見ていたら、
ふと、思い出しました。
(あ、アメリカの大学に留学していたのは、
ちょうど30年前だったな)・・・と。
古い話ではありますが、
お時間の許す方は、
少しばかし、
若かりし頃の、私の思い出話にお付き合い願えれば幸いです。
1994年6月、大学3回生だった私は、
TOEFL試験や学内選考を経て、
交換留学生に認められ、
アメリカのバージニア州にある提携校、
クリストファーニューポート大学(CNU)へ
1年間、留学することになりました。
今まで、飛行機に乗ったことはありましたが、
海外に出るのは、その時が全くの初めて。
大阪伊丹空港で家族や友人に見送られて、
ワクワクする気持ちで、
化け物のように大きく見えたジャンボ機に乗り込み、
日本を旅立ちました。
(今はもう無くなったノースウェストのジャンボ機。
さらに、当時は関空も開業前でした)
渡米後、ホストファミリーの家に住まわせてもらいながら、
コロラド州のゴールデンと言う街にある英語学校に通いました。
ゴールデンは、ロッキー山脈の近くにあり、
緑と自然豊かな田舎町という非常に美しい街でした。
英語学校には日本人のほか、色々な国からも学びに来ていました。
英語は苦手では無かったですが、英会話はカタコトくらいで、
しかし、なぜか言葉のハードルを感じず、
積極的に他の生徒と会話することに努めました。
先生方もとてもアットホームで優しい方ばかりで、
毎日の授業もとても楽しかったです。
見るものすべてが珍しく、毎日が新鮮で、
ワクワクの日々でした。
ホストファミリーの子どもたちが
「タケは黒髪の方がいいのに!!」
と猛反対したにも関わらず、
ブリーチで脱色して、茶髪にしました。
運転免許証も、現地で試験を受けて、
取得しました。
ダンスパーティーもこの時が初体験でした。
大して飲めもしないくせに、
楽しすぎてテキーラを飲み過ぎてしまい、
気が付けば全く知らない女の子(生徒)の
膝枕で寝てしまっていた・・・なんてこともありました。
若気の至りですね。
3-1. 1994年8月下旬 ニューヨーク立ち寄り
2か月間の英語学校を終えた私は、
飛行機を乗り継いで、
バージニア州の大学へと移動することになりました。
(アメリカの大学は9月が新学期です)
しかし、直行するのはもったいないと思い、
途中、ニューヨークに立ち寄って、
5番街を散策したり、
ブロードウェイでミュージカルを見たり、
そして、今は無き、WTCビルなども観光しました。
2か月滞在したコロラドの町は<カントリーサイド>という
表現が似合うようなのんびりした田舎町でしたので、
ニューヨークで初めてアメリカの大都会を目の当たりにし、
日本とは違うBIGスケールに驚愕しました。
3-2. 1994年8月下旬 バージニア州の大学へ
バージニア州立クリストファーニューポート大学へ移動した私は、
留学生担当の教授との面会や入学手続きなどを済ませ、
キャンパス内の寮で生活することになりました。
ルームメイトは、マイクという現地のアメリカ人で、私より3歳年上。
一時はドラッグにハマったものの、そこから立ち直り、
コンピューター工学を学んでいる、ヒゲを蓄えている落ち着いた感じの学生でした(笑)
マイクも僕も音楽が大好きで、お互いの趣味の音楽を聴き合って、
すぐに意気投合しました。
アメリカの大学はテキストが日本では考えられないくらい分厚くて重たく、
毎日、寮からかなりのボリュームのテキストを抱えて授業を受けました。
(しかし、そのうち、要領を得ることになります)
さて、今となっては30年前の話ですが、
日本の大学とは違う点がいくつかありました。
あくまでも私見ですが、4点、ご紹介させて頂きます。
1つ目は、大学の授業が市民にも開かれているという事です。
日本で大学生と言えば「若者」ですが、
その大学では、夜の授業もあり、
そこには、若者に混ざって、オッチャン・オバチャンも来ていました。
世代が異なる人たちと共に学ぶことが出来る環境は、
とても素晴らしい事だと大いに感心しました。
2つ目は、図書館が夜12時まで開いているということです。
英会話は、何とか生活レベルくらいなら大丈夫、という感じだったのですが、
テキストに出てくる専門用語などはチンプンカンプン。
だから、予習と復習が絶対必要で、
夜遅くまで開けてくれている図書館が大いに役に立ちました。
私が通っていた日本の大学の図書館とはスケールが大違いで、
その場で座っているだけでも賢くなりそう!(笑)
一生懸命に勉強する他の生徒たちが居合わせることも良い刺激になりました。
だから、授業が終わると、深夜12時まで図書館で勉強し、
閉館後は寮の部屋で再び勉強をする・・・平日の基本はそんな日々でした。
私は本場アメリカの会計が学びたいと思い、会計科目の講義を多く受けていたのですが、
担当科目の先生は「分からないことがあったら、夜何時でもいいから、電話してきてね」
と、クラスの生徒全員にご自宅の電話番号までに教えてくれました。
これは非常に助かりました。
夜遅く、何度も先生の家に電話を入れ、宿題のことなど色々と教えてもらいました。
日本の大学で教授の家にまで電話をして質問する・・・あり得ないほど親切だと思いました。
会計科目やマーケティング科目などをメインに履修していたのですが、
趣味のドラムも叩きたいなぁと思い、
音楽科の教授の部屋に突然行って、
「部室のドラムを叩かせて下さい、そして、吹奏楽の授業も履修させて下さい!」と
お願いしました。
今でも覚えています。Dr.ライマーという先生です。
私の突然の訪問&お願いにも関わらず、
めっちゃ優しい満面の笑顔で「もちろん、大歓迎だよ~!」と
ドラムを叩くことも、吹奏楽の授業を受けることも、受け入れて下さいました。
それがきかっけで音楽科の校舎に出入りるすることも多くなり、
ちょこちょこドラムを叩いていると「おー、きみ、ドラム上手いやん!」などと
他の生徒からも話しかけられるようになり、
「エイジ、PEPバンド(応援団バンド)でドラムやらないかい?」と誘われ、
スポーツ系部活の対外試合の応援演奏をしに行ったり、
町内を演奏しながらパレードで演奏をしたりと、
音楽を通じて、キャンパス外でも楽しい経験をさせて頂きました。
アメリカ人の生徒がみなフレンドリーと言う訳では決してありません。
物静かな生徒、バカ騒ぎばかりしている生徒など、
そこは日本と同じく、色々が学生がいますが、
基本、日本人よりもかなりフレンドリーで、
こちらが勇気を出して一歩を踏み出さなくとも、
気さくに声を掛けてくれ、誘ってくれ、
結構ウェルカムな感じで迎え入れてくれます。
あぁ、応援団バンドのみんな、
元気にしているかなぁ・・・。
私はアメリカの大学に行ってから、
自分でも分かるくらい、
みるみる内に英会話力が伸びていきました。
それは、毎日共に暮らすルームメート、
そして、大学の友だちのおかげです。
(ただ、一番効果が大きかったのは、
現地で付き合ったガールフレンドの影響だったのかも知れません。
あ~、甘酸っぱい思い出だ・・・。
しかし、ブログでは敢えて省略しますw)
ここで、英会話について思うのは、
どれだけ英会話が出来たとしても、
つまらない人間は相手にされないし、
性格が悪い人間は信用もされない、
と言うことです。
逆に言えば、
英会話が多少たどたどしくても、
明るい人・楽しい人・優しい人は、
たとえアメリカという異国の地であっても、
コミュニケーションには困りません。
英語力や英会話力もさることながら、
むしろ、そもそもの人間力
・・・これが海外では一番問われる要素だと私は思っています。
アメリカ留学中の思い出を話し出したら、
三日三晩あっても足りないくらいですが
さいごに、
忘れられないあの景色について、
ご紹介したいと思います。
それは、グランドキャニオンで見た「七色の夕焼け」です。
グランドキャニオンだけでも、大感動!!
「やっぱり、神様はいる!!」と信じたくらい、
ハタチの若き私は、そのスケールに圧倒されました。
そして、日没時に偶然見た、
グランドキャニオンに沈む、七色の夕焼け。
きれい・美しい・感動・・・そんなレベルではありません。
言葉が出ない・・・。
息が出来ない・・・。
一生目を閉じたくない・・・。
当時、若きハタチだった私にとって、
それはまるで、地球規模の出来事に遭遇したようでした。
(あの景色、どうにかネットサーフィンで見つけられないか?)
と、たまに思い出しては、画像検索をするのですが、
どれもこれも、あの感動には至らないのです。
しかし、私の脳裏にはしっかりとあの絶景が焼き付いています。
死ぬまでにもう一度、
できれば、妻や子どもを伴って、
あの景色を拝みたいものです。