今回のブログは税務の話から外れ、
家族の話を書かせて頂きます。
【1】わたしの母は81才なのですが、「なんとかカラダが動くうちに、もう一度、故郷、大分の景色が見たい」と常々言っていました。
息子としても、なんとかその希望を叶えてあげたい
と思っていたのですが、
直近2年は手術や入院を繰り返しており、
旅行はちょっと厳しいなという状況でした。
しかし、やっと体調も戻ってき、
杖を突きながらの、介助がやや必要な状態ではありますが、
なんとか回復してきてくれたので、
両親、そして、わたしの妻と子どもたちも伴って、
家族総出で大分へ行くことにしました。
初めてのIBEXエアラインズ
【2】大分は、母の故郷でもあり、わたしにとっては「九州のおばあちゃんち」です。
子どもの頃は夏になると「さんふらわあ」に乗って、
よく遊びに行ったものです。
おばあちゃんの家はとても古く、
大きな敷地で、
海のすぐそばにあります。
夏休みの滞在中には、
毎日のように海水浴に行ったり、
潮干狩りをしたり、
そして、海から帰ってきたら
庭の井戸水でカラダを洗ってもらったものです。
トイレは縁側の端っこにあり、
夜に行くときはちょっと怖かったものです。
昔ながらのおくどさん(お釜)もありましたし、
お風呂は五右衛門風呂でした。
日中は、ちょこちょこ【魚商のおばあさん】が
天秤棒を両肩にぶら下げて、
とりたての新鮮な魚を売りに来ていたものでした。
高校に入学する直前の春休みには、
当時「ユースホステルの旅」という本に感化されたわたしは、
大阪からフェリーで単独鹿児島へ行き、そこから大分の祖母宅まで
ひとり旅をしました。
「直接家まで行けるから、迎えに来んでいい!」
と前もって祖母に言っておいたにもかかわらず、
祖母は地元の駅からわざわざ電車に乗って別府駅まで迎えに来てくれており、
しかし、そんなことを知らないわたしは祖母の家にそのまま到着し、
「あれ???おばーちゃん、おらへん」
と少し慌てたことを記憶しています。
当時、祖母はパーキンソン病でしたので、
歩く時はドタバタとしか歩けず、
そんな祖母に手間を掛けさせたくないと思い、
わたしは「一人で直接行ける!」と言ったのですが、
今思えば、高校入学前とはいえ、
「幼い孫がひとりで来るのだから、別府駅まで迎えに行ってやろう」
と考えてくれたのでしょう。
その優しさが、今はとても分かります。
祖母宅の周辺はこのような細い道がたくさんあります
近所には城跡や武家屋敷があり、落ち着きと共に凛とした空気感があります。
【3】祖母は「男の子はドンドン食べなさい」というタイプでした。
ひとり旅で行った時も、カレーを作ってくれたうえに、
さらに、近所の鶏肉屋さんで鶏の脚のから揚げを山ほど買ってきて、
そのうえ、お刺身も山盛り用意してくれました。
(鶏の脚は5本くらいで限界でしたw)
しかも、作ってくれたカレーですが、
恐らく、祖母は普段、魚料理が中心で、
カレーなんて全く作らなかったのでしょうが、
若い子が喜ぶだろうからと、
久しぶりに作ってくれたのだと思います。
しかし、普段作り慣れていないせいか、
カレーがトロリを通り越してドロリとしており、
お玉でカレーをすくっても粘度が高すぎてご飯に投下できず、
お玉をひっくり返してもルーがお玉にくっついたまま。
すると、祖母は「タン!」とお玉の片方を食卓に打ち付け、
ルーが「ボタっ!」とカレーがライスに落ちるという(笑)
そんな祖母は、只々優しい人でした。
いつもニコニコしており、
一度も叱られたことはありません。
わたしがもっと小さいころに訪れた際、
新調したてのタタミを【物差し】の角っこで「ザー!」と走らせたときも、
「まぁ、まぁ!」と祖母はニコニコしながら言うだけで・・・。
(おばあちゃん、ごめんよ)
藩校、致道館。
観光ガイドさんが詳しく説明して下さります。
【4】そんな優しい祖母は、今から15年ほど前に他界しており、今回、久しぶりに訪れた祖母の家はすっかり解体され、雑草が生い茂るノッパラになっていました。
懐かしくもあり、ちょっと寂しい・・・
そんな胸中でいると、敷地内に小さなホコラ(お稲荷さん)を見つけました。
幼少期の頃は全く覚えがないのですが、
草だらけのなかにホコラがそのまま有るのは何だか気の毒な気持ちになり、
わたしは近所の商店でお酒とお塩を買い求め、
ホコラを掃除して、そして、土地一帯をお清めすることにしました。
わたしもずっと前から祖母宅をもう一度見てみたいと思っていただけに、
なんだか気持ちがスッキリしました。
そして、「一番来たかった人」であるお袋は、
とにかく喜んでくれました。
「孫たち(わたしの子ども二人)にも大分の景色を見せたい」
とずっと言っていましたので、
母は感無量の様子でした。
体育館がすっぽり入るくらいの敷地。
家は解体され、すっかり野原になっていましたが、
井戸跡や玄関に続く階段など、
以前の姿を垣間見ることもできました。
【5】翌朝、お袋は「おばあちゃん(母)が夢に出て来てくれたよ!」と興奮気味に私に報告してきました。
夢の中で、祖母は
「大勢で来てくれたんじゃなぁ、ありがとう」と
それはそれは、大いに喜んでいたようです。
そして、
祖母から見ればひ孫にあたる私の子どもたちのことを
「一緒に来ていた子どもたちは、名前は何て言うんじゃ?」
と夢の中でお袋に聞いてきたようです。
さらに、祖母はお袋に対して
「あんた、いくつになったんじゃ?」と聞くので、
お袋は「81になったんよ」と。
祖母は生前、お袋が帰省するたびに
「あんた、いくつになったんじゃ?」と聞く人だったようです。
だから、今回、久しぶりに故郷を訪れたお袋に、
祖母は常套句の質問をしたのでしょう。
「これが、すべて単なる夢やとは思われへん。
おばあちゃん、すごく喜んでくれて、
そして、夢を通じて出てきてくれたんやわ・・・」
お袋は涙声になりながら、そう話をしてくれました。
私も胸が熱くなりました。
うん、単なる夢じゃなく、
本当に祖母がお袋に嬉しさを伝えるために
現れてくれたのだと思いました。
日出の海。
対岸には高崎山が見えます。
【6】今回の大分旅行、お袋は「連れて行ってくれてありがとう」とすごく喜んでくれました。
そして
「なんだか、気持ちが、すっとした」と。
私自身、
ずっと再訪したかった大分の祖母宅。
そして、あの海、あの景色・・・。
それを、両親と、そして、
妻と子ども達も一緒に連れて行けたことは
大きな達成感であり、喜びです。
人には誰しも大切な場所があります。
それがどんな場所であるか、それは人によって違うと思いますが、
大分の日出の町は、
私にとってもかけがえのない、
大切な場所のひとつです。