借入の話から、数日。
工場の隅。
旋盤の音が、一定のリズムで響いている。
小さな机の上には、白い紙と電卓。
ヤマゲンが言った。
「田中さん」
「はい」
「借入を返す、と言いましたな」
「……はい」
「ほな、いくら売ったら返せるか、分かっとりますか」
田中は、黙った。
夏美が小さく言う。
「損益分岐点、でしょうか」
「まず固定費や」
「売上がゼロでも、毎月必ず出ていく金は何や」
田中が指折り数える。
「家賃」
「人件費」
「水道光熱費」
「通信費」
「借入の利息もですね」
「その通りや」
ヤマゲンは書く。
固定費 120万円
「これは、売上と関係なく出ていく金や」
「売上と連動して増える経費は?」
「材料仕入れです」
「外注費もあります」
「そや」
「一個作ったら一個分かかる金や」
夏美が整理する。
「売上に比例する費用ですね」
「その通りや」
「ほな聞くで」
「売上のうち、材料と外注で消える割合、どれくらいや思う」
田中は考え込む。
「感覚ですが……6割くらいですかね」
「それが変動費率や」
ヤマゲンは書いた。
変動費率 60%
限界利益率 40%
「売上100万なら、60万が変動費で、40万しか残らん」
「その40万から固定費を払うんや」
田中は、うなずいた。
「ほな計算や」
120万 ÷ 0.40
電卓の表示。
「……300万円です」
「これが損益分岐点売上高や」
「利益ゼロのラインや」
旋盤の音だけが響く。
「せやけどな」
ヤマゲンの声が低くなる。
「利益ゼロで、借入は返せるか」
田中の喉が、わずかに動いた。
「……返せません」
「そや」
「返済の元本は経費やない」
「今の計算だけでは、
返済の元本が必要コストに入ってへん」
「第二段階や」
ヤマゲンは紙を替えた。
「旋盤の元本返済、毎月いくらや」
「13万円です」
「運転資金は」
「5万円です」
「合計は」
「18万円です」
「固定費はなんぼやった」
「120万円です」
「そこに足すんや」
固定費120万 + 返済元本18万 = 138万
「あとは、同じ式や」
「138万円を限界利益率で割り戻す」
138万 ÷ 0.40
「……345万円です」
「これが資金収支分岐点や」
「現金が減らん最低ラインや」
今の平均売上は、月280万円。
月65万円、足りない。
田中の手が、紙の端を強く握る。
夏美が、静かに言った。
「ゼロは、安全ではないんですね」
「そや」
「ゼロは、出発点や」
しばらく、誰も話さなかった。
旋盤の回転音だけが、時間を刻む。
ヤマゲンが、ぽつりと言う。
「銀行はな」
「この数字を見とる」
田中が顔を上げる。
「決算書を出すやろ」
「その向こうで、銀行はこう考えとる」
“返済原資はあるか”
空気が変わる。
「銀行は敵やない」
「せやけど、情では貸さん」
「数字で見る」
夏美が小さくつぶやく。
「ということは……」
「資金収支分岐点を超えなければ、信用も積み上がらない」
「その通りや」
ヤマゲンは、もう一枚紙を出した。
「方法は3つや」
「売上を増やす」
「固定費を削る」
「変動費率を下げる」
田中が言う。
「値上げ……ですか」
初めて、自分から出た言葉だった。
ヤマゲンは、わずかに笑う。
「よう気づいたな」
「値上げしたことによって、
変動費率が60%から58%に下がったら、どうなる」
田中は電卓を叩こうとして、手が止まる。
138万 ÷ 0.42
「……約328万円です」
空気がわずかに変わる。
「元は345万やったな」
「はい」
「いくら下がった」
「……17万円です」
「そや」
「345万から、39万円下がります」
「すると、どうや」
「……正直、だいぶ楽になります」
しばらく、旋盤の音だけが響く。
田中が言った。
「でも……値上げは勇気がいります」
「確かに」
ヤマゲンは静かに言う。
「せやけどな」
「根拠のない値上げは、ただの願望や」
「原価を知り、限界利益を知り、
はじめて交渉になる」
「三期比較で、
売上・原価・粗利の推移をまとめましょうか」
「ええな」
「変動費率、上がっとるはずや」
「2期前より、8%上がっています」
「ほな、5%は理屈の範囲内やろ」
田中は、しばらく黙る。
「断られたら……」
「そのときは、
遅かれ早かれや」
「無理な単価で続ける方が、
よほど危ない」
静寂。
「借入は前借りや」
「前借りを返すには」
「未来を作らなあかん」
田中は、まっすぐに言った。
「5%、お願いしてみます」
「まずは、306万円を最低ラインとして超えます」
ヤマゲンは、静かにうなずく。
「超えたらな」
「銀行は“貸す側”から“応援する側”に変わる」
土台は、現金。
流れは、預金。
信用は、売掛金。
責任は、買掛金。
時間は、固定資産。
そして――
ゼロは、守りやない。
攻めの入り口や。
旋盤は、今日も回り続けている。
だが、回っているのは機械だけではない。
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