表紙には、元々、
社長ノート
と書いてあったのだが、
いつの日だったか、
夏美は、
それに二重線を引き、
妖怪ノート
と改題していた。
しばらく見つめる。
「おじさん、いえ、先生、これ……」
そういうと、
夏美は、
ノートを源太郎に差し出した。
「ほう」
源太郎が、
ページをめくる。
「おもろいやん」
「各社長の特徴、しっかり捉えとるな」
夏美は言った。
「でも、これ、
社長のことを記録していたつもりが」
「わたしのことを、
書いていました」
源太郎は、
少しだけ笑った。
「ようやく気づいたな」
「え?」
「なんで、最初、
あの7件を担当させたか、分かるか」
「いえ、全然……」
源太郎は、椅子に深く座った。
「なっちゃん、昔話でな、
汚い格好をした人を、
きれいに洗ってあげたら、
実は、
仏さんやったっちゅう話、知ってるか」
「いえ……」
そうか、
というと源太郎は続けた。
「あの社長たちはな、
ワシと会った当初は、
ひどいもんやった」
夏美は、
すかさず言った。
「わたしのときも、ひどかったです」
「そのひどさは、
先生にも、
これまで報告させてもらったとおりです」
源太郎は笑う。
「あれは、少々、演技が入っとる」
「演技?」
「そや」
「あの社長ら、
ワシも最初は手こずった」
「わがまま、
自分勝手、
泣き言、
そら、ひどいもんやった」
「そやから」
源太郎は、
たばこに火をつけた。
「ワシも、
最初の頃は、
なっちゃんと同じように、
あの社長らは、
ストレス以外の何者でもなかった」
夏美は、
驚いた表情を見せた。
「そやけどな、
日々仕事をさせてもらう中で、
少しずつ、
景色が変わっていった」
「景色、ですか」
「そや」
源太郎は、
タバコの火を、
灰皿で消した。
「最初な、
ワシは、
自分の力で、
あの人達の会社も、
そして、あの人達自身についても、
アカン部分を全部直したろうと思ってた」
「そやけど、
それはワシのエゴやった」
「エゴですか」
「そや」
「そやけど、
あの人らは、
"人は人を変えられへん"ってことを、
ワシに教えてくれた」
「え、じゃあ、
ダメな人は、
ダメなままじゃないですか」
「そこが、ちがうねん」
「ダメとは、ちがうんや」
夏美は、言葉を飲み込んだ。
「ええか、なっちゃん」
静かに、
源太郎は続けた。
「この世の中、
いわゆるエリートと呼ばれるような、
官僚や、大企業に勤めるもんもおる」
「はい」
「そやけど」
「魚屋もおる。
土木工事屋もおる。
一晩中、赤い点灯棒を持って警備しとる人もおる。
バスの運転手もおる。
散髪屋もおる。
町工場で働く人もおる。
レジ打ちのパートもおる。
色んな人がおる」
「しかも、人間みな、
生まれも育ちも違うから、
性格も違う。
怒りやすい人もおれば、
悲観的な人もおる。
上手に言える人もおれば、
感情が先に出てします人もおる。
金を持っている人もおれば、
困っている人もおる」
源太郎は、大きく息を吸った。
そして、
ゆっくりと吐いた。
「いろんな人で成り立っとる。
それが世の中や」
「それを、いったい、
誰が良くて、
誰がアカンなんて、
どうやって決めれるんや?」
「誰がそれを決めるんや?」
「少なくとも、
ワシらにそれを決める権利があるんか?」
源太郎は、
ゆっくりと立ち上がり、
窓の外を眺めた。
雨は、
いくぶん小降りになっていた。
「なっちゃん」
「税理士の仕事って、なんやと思う?」
源太郎が、
窓の外を見たまま、聞いてきた。
「決算とか税金の計算……でしょうか」
夏美が答える。
源太郎は、
背中のまま、
壁に掛けられた額縁を指さした。
「これ、ゆっくり読んでみ」
夏美は、声に出さず、
一行ずつ目で追った。
税理士法 第1条 税理士の使命
税理士は、
税務に関する専門家として、
独立した公正な立場において
申告納税制度の理念にそって
納税義務者の信頼にこたえ、
租税に関する法令に規定された
納税義務の適正な実現を図ることを
使命とする。
「これが、ワシら、
税理士の仕事や」
「それだけや」
「それ以上でも、以下でもない」
夏美は、
税理士に使命があることを、
初めて知った。
額縁から、
しばらく目が離せなかった。
「ワシも、
忘れんように、
こうやって壁に掛けとるんや」
「悩んだとき、
迷ったとき、
苦しいとき、
ワシはこれを見て、
原点を思い出す」
「ワシらは、
税金を好き勝手に決めれる手品師やない。
世直し役でもないし、
人格形成者でもない。
ましてや、
人の罪を決める裁判官でもない」
源太郎は、
立ったまま、振り返る。
「なっちゃんに担当してもらった、
最初の7件の社長やけど……
あの人たちは、
頭でっかちになりかかとったワシに、
自分のことが偉いと勘違いしそうになっとったワシに、
色々なと人との向き合い方を教えてくれた、
仏さんみたいなもんや」
「仏さん?」
「そや」
「あの人達に会ってなかったら、
今頃ワシは、
税理士の使命を忘れて、
コンサル気取りか、
高僧気取りになってたかも知れん」
源太郎は、続けた。
「なっちゃんは、
今、就職浪人中の身や」
「席は、一応うちにあるけど、
ワシにとったら、
なっちゃんは仮受金みたいなもんで、
本当の意味での正社員ではない」
「そやから、試し試しで、
内務の仕事をしてもらったり、
簿記2級を取ってもらったりしながら、
なっちゃんがどこまでできそうか、
そして、
なっちゃんの覚悟を見とった」
「わたしの覚悟…ですか」
「そや。だから、
この先どうするかって、
この前も聞いたやろ」
「はい」
「頭で考えても難しいやろうから、
ワシは、敢えて、
7人の社長らに協力してもろうた」
「協力?」
「そや、あの社長ら、
ヤマゲン先生の頼みやったらって、
なっちゃんを引き受けることに、
快諾してくれた」
「引き受け?」
「そや。
みな少々演技が過ぎたようやけどな」
源太郎は少し笑った。
「なっちゃんがな、
あの社長らの会社を出たあと、
みな、ワシに逐一電話報告をくれたわ。
今日はこんな対応をしましたけど、
やり過ぎましたかね?
姪っ子さん、大丈夫ですかね?ってな」
「え?」
「じゃあ、ニセモノ妖怪?」
再びヤマゲンは笑った。
「いや、そうとも言えん。
あの社長ら、
たしかに最初はワシも困った。
なっちゃん流にいうたら、
妖怪やったかもしれん」
「せやけど、
今は、どの社長も、
本当はちゃんとしとる」
「なっちゃんの勉強になるようにと、
社長らなりに、
みな色々考えてくれて、
敢えて厳しい役を演じてくれたんや」
夏美は、聞いた。
「じゃあ、
もう1件追加すると言って、
8件目の担当になった、
東和トンネルの社長も?」
窓から、
明るい日差しが
差し込んできた。
「東和さんには、
詳細は伝えとらん」
「え、そうなの?」
「そや。
しばらく、見習い中の新人担当に行かせる、
それだけは最初に伝えておいた。
そやけど、それ以上のことは伝えてない」
「あの社長は苦労人や。
創業者の先代は、確かにすごい人やった。
そやけど、
そのプレッシャーを背負いながら、
実質的に会社を大きくしたのは、
今の2代目の社長や」
夏美が口を開いた。
「わたし、東和社長のこと、
最初はすごい人だなって思っていたんですけど、
なんだか、知ったかぶりをしているように思えてきて、
いつの間にか、馬鹿にしていたんです。
でも、実はとても実直で、
懐の深い人だと改めて気付きました」
そう言うと、
夏美は、
これまでのこと、
そして、
今朝の出来ごとを、
源太郎に説明した。
源太郎は、
静かに目を閉じた。
「さすが、東和さんやな」
「若造相手に、
素直に非礼を詫びるなんて、
ワシには到底、真似できへん」
「やはり、あの人に、
最終テストを任せて良かった」
「最終テスト?」
「そや。
それまでの7人の社長を経て、
あの人は最終テスト。
そう思って担当させた」
夏美は、
少し不快な表情を見せた。
が、すぐに
表情を戻した。
「最終テストかぁ……」
夏美はつぶやいた。
「東和社長とお会いしててなかったら、
わたしが妖怪のままだった……」
それで、
最終テストの結果はどうなのかと、
夏美が尋ねた。
「ワシには分からん」
「分からん?」
「そや」
少なくとも…と言ってから、
源太郎は、
再び、たばこに火をつけた。
「少なくとも、
ワシの税理士事務所で働くには、
合格や。
能力もあるし、成長もしとる」
「それに……」
「それに?」
「言われるばっかりやなくて、
なかなか厳しい言葉も、
社長に対して言えるようになっとるらしいな」
「あっ」
夏美は、
いつの日だったか、
妖怪の一人に厳しく苦言を呈したことを、
思い出した。
「あ、あれは……」
思わず、赤面する。
「かまへん、かまへん。
そういう強い言葉も、
ときには、
ワシらには必要や。
優しいばかりではアカンときもある」
「で、どうするねん?」
「え?」
「今日までの経験を経て、
この先を決めるのは、ワシやない。
なっちゃん自身や」
「少なくとも、
自分なりの答え、
見つけたんとちゃうか?」
「答え、ですか?」
「そや」
「正直、迷っています……」
夏美は、
目線をを伏せた。
「でも……」
「昨日までとは、
いえ、もっと言えば、
今朝までとは、
確実に、景色が違う気がします」
夏美は、
力強い目で源太郎を見つめた。
窓の外には、
まだ雨の名残があった。
だが。
さっきまでとは、
少しだけ、
違って見えた。
世界が、ではない。
自分の見方が、
変わったのだと。
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