翌週、田中 恒一は、先生の事務所をもう一度訪れていた。
前回と同じ席。
同じ机。
けれど、気持ちは少し違う。
田中は、机の上に新しい通帳を置いた。
真新しい、事業用口座。
「……とりあえず、作ってきました」
先生は通帳を一瞥して、軽くうなずいた。
「ええですね。
これだけで、もう一歩前進ですわ」
田中は、少し照れくさそうに笑った。
「正直、
こんなんで何が変わるんかな、って思ってました」
先生は、椅子に深く腰掛け、
腕を組んだ。
「ほな、聞きますけどな」
一拍。
「今、通帳の残高見て、
全部使ってええお金や、思います?」
田中は、はっとして、首を振った。
「……思わないです」
「でしょ」
先生は、ペンを取り、
紙に大きく二つの丸を書いた。
ひとつは「事業」。
もうひとつは「生活」。
「今まではな、
これ、重なってたんですわ」
二つの丸を、ぐっと重ねる。
「せやから、
残高見た瞬間に、
判断が狂う」
次に、丸を少し離した。
「分けたらな、
考えんでええことが増えるんです」
「考えんでええこと……?」
「そうですわ。
これは事業。
これは生活。
迷う回数が、減る」
田中は、その紙を見つめた。
確かに。
昨日、新しい通帳を見たとき、
変な安心感があった。
金額は、決して多くない。
でも、
「事業のお金だけ」が、
そこに並んでいた。
「それからな」
先生は、もう一つ丸を書き足した。
そこには、こう書かれている。
――税金。
「これ、
まだ払ってへんけど、
もう“あなたのお金ちゃう”
思といた方がええです」
田中は、思わず苦笑した。
「……耳が痛いです」
「みんな、そう言わはります」
先生は、さらりと言った。
「税金を怖がる人ほどな、
実は、
自分のお金やと思って使てしまう
ことが多いんです」
その言葉が、
過去の自分に、ぴたりと重なった。
売上が入ったとき。
残高が増えたとき。
あれは、
全部“自由に使えるお金”
だと思っていた。
「分ける、いうんはな」
先生は、少し声を落とした。
「締め付けることやないです」
田中を見る。
「安心するためですわ」
その言葉に、
胸の奥が、すっとした。
管理。
制限。
我慢。
そんなイメージばかりだった。
でも、これは違う。
不安を、
外に出す作業なのだ。
「正直な話な」
先生は、少し笑った。
「これできひんまま、
十年やってる社長さんも、
ぎょうさんいます」
「……十年」
「せやけどな、
田中さんは、
まだ三年目ですわ」
田中は、その言葉を噛みしめた。
「今、気づけたんは、
めちゃくちゃ早いです」
事務所を出るとき、
田中のスマートフォンが震えた。
銀行からの通知。
事業用口座への、
初めての入金。
金額は、小さい。
でも。
田中は、画面を見て、
はっきりと思った。
――これは、
仕事のためのお金だ。
生活費とは、違う。
税金とも、違う。
たったそれだけのことが、
こんなにも、
頭を軽くするとは思わなかった。
分ける。
ただ、それだけ。
でも、その一歩は、
田中の中で、
確かに、世界を分け始めていた。
事務所は、想像していたよりも静かだった。
田中 恒一は、少し早めに着き、
入口の前で深呼吸をした。
税理士事務所。
もっと堅くて、
もっと“正される場所”だと思っていた。
「どうぞ」
扉を開けると、
電話口で聞いた、あの落ち着いた声の主がいた。
年齢は、田中とそう変わらないだろう。
白衣でもスーツでもない、
少しラフな服装。
「田中さんですよね。
今日はわざわざ、ありがとうございます」
そう言って、軽く頭を下げる。
――この人が、“先生”。
そう呼ぶのは、まだ少し照れくさい。
席に着き、
田中は持ってきた資料を、
机の上に並べた。
通帳のコピー。
会計ソフトの試算表。
レシートの束。
「……正直、
どこから見てもらったらええか分からなくて」
そう言うと、先生は、
書類には目を落とさず、
田中の方を見た。
「ほなな、数字の前に
一個だけ聞いてもええですか」
少し間を置いて、
先生は続けた。
「田中さん、
今いちばん、不安なんは何です?」
田中は、言葉に詰まった。
税金。
お金。
帳簿。
どれも正解のはずなのに、
どれも、しっくり来ない。
しばらく考えてから、
ゆっくり口を開いた。
「……ちゃんとやってる“つもり”やのに、
間違ってたらどうしよう、って」
先生は、小さく頷いた。
「それな。
ちゃんと考えてはる証拠ですわ」
その一言で、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
怒られなかった。
否定されなかった。
先生は、ようやく資料に目を向けた。
ページをめくりながら、
淡々と話す。
「黒字ですね。
仕事は、ちゃんと取れてはります」
次のページ。
「せやけどな、
現金は減りやすい形してますわ」
田中は、思わず身を乗り出した。
「……やっぱり、そうですか」
「ええ。
製造業では、ようある話です」
先生は、ペンを取り、
紙に、簡単な図を描いた。
売上。
材料。
設備。
税金。
矢印が、
少しずつ、ズレていく。
「利益いうんはな、
結果なんですわ」
一拍置いて、続ける。
「でも現金は、
流れなんです」
田中は、
その図を見つめた。
今まで、
感覚だけで感じていた違和感が、
形になっていく。
「今日はな、
全部いっぺんに解決せんでええです」
先生は、そう言って、
ペンを置いた。
「まずは、
分けましょ」
「分ける……?」
「事業のお金と、
生活のお金。
それからな、
まだ払ってへん税金」
田中は、はっとした。
財布。
通帳。
頭の中。
全部、混ざっていた。
「これができるだけでな、
不安、半分になります」
数字の話をしているはずなのに、
先生の言葉は、
なぜか、心の整理のようだった。
帰り際、
田中は、思わず聞いた。
「……先生って、
いつも、こんな話し方なんですか?」
先生は、少し笑った。
「数字いうんはな、
人の“結果”ですさかい」
「結果……?」
「生き方とか、
選択とか、
そういうもんの、ですわ」
田中は、
その言葉を、
何度も、頭の中で繰り返した。
税理士は、
数字を正す人だと思っていた。
でも、この人は。
数字の向こう側を、
一緒に見よか、言うてくれる人
なのかもしれない。
事務所を出たとき、
空は、少し明るくなっていた。
問題は、まだ山ほどある。
でも。
進む方向だけは、
はっきりした気がした。
田中 恒一は、名刺を手に取ったまま、しばらく動かなかった。
そこには、黒い文字で、肩書きと名前。
そして、その下に小さく――税理士。
「……電話、するか」
独り言のように呟いて、
スマートフォンを手に取る。
すぐには、番号を押せなかった。
今さら、何を聞けばいいのか。
どこから説明すればいいのか。
黒字なのに苦しい。
利益が出ているのに、お金がない。
そんなことを言って、
笑われないだろうか。
田中は、一度、通帳アプリを閉じ、
ノートを開いた。
利益と現金。
同じだと思っていた二つの言葉を、
横に並べて書く。
利益。
現金。
しばらく見つめて、
線を引いた。
同じじゃない。
そう、はっきり分かる。
利益は、計算の結果だ。
売上から経費を引いた、数字の上の答え。
現金は、
実際に、
出入りするお金。
材料を買えば、出ていく。
設備を直せば、出ていく。
税金を払えば、出ていく。
でも、その多くは、
利益が出た“後”に、やってくる。
「……ズレてるんだ」
時間が。
利益は、
今の数字。
現金は、
少し遅れて動く。
そのズレを、
今まで、ちゃんと意識してこなかった。
田中は、名刺の裏に、
小さく書き込んだ。
「利益≠現金」
その瞬間、
少しだけ、気持ちが軽くなった。
分からないまま苦しいのと、
分かって苦しいのとでは、
全然、違う。
そして、
分かってしまった以上、
次にやるべきことも、
うっすら見えてくる。
――聞いてみよう。
田中は、ついに番号を押した。
数回の呼び出し音のあと、
落ち着いた声が、耳に届いた。
「はい、〇〇税理士事務所です」
一瞬、言葉に詰まる。
「あ、あの……製造業をやっている、田中といいます」
自分の声が、少し硬い。
「ええ。どうされました?」
その声は、
思っていたよりも、淡々としていた。
責めるでもなく、
急かすでもなく。
田中は、深呼吸をして、
こう言った。
「黒字なんですが……
お金が、残らなくて」
一拍。
電話の向こうで、
声が、少しだけ、柔らかくなった。
「……それは、多いですね」
その一言で、
田中の肩から、
力が抜けた。
笑われなかった。
否定されなかった。
むしろ、
「よくあること」
として、受け止められた。
「一度、資料を見ながら、
整理しましょうか」
整理。
その言葉が、
妙に、心に残った。
「はい……お願いします」
電話を切ったあと、
田中は、しばらく動けなかった。
問題が、
消えたわけじゃない。
でも。
一人で抱えなくていい
そう思えた瞬間だった。
利益と現金は、別の生き物。
そのことを、
初めて“誰かと共有できた”夜だった。
決算月が近づくと、田中 恒一の気持ちは、少し沈んだ。
売上は悪くない。
むしろ、前年より伸びている。
会計ソフトの画面にも、
はっきりと「黒字」と表示されていた。
「……なのに、だ」
通帳を開く。
数字を見て、眉をひそめる。
思っていたほど、残っていない。
材料費は払った。
外注費も払った。
工具も買った。
それでも、
利益は出ているはずだ。
「黒字って……何なんだ?」
独り言が、誰もいない工場に響く。
田中は、作業台に腰を下ろし、
頭の中で簡単に計算してみる。
売上から、経費を引く。
残ったのが、利益。
理屈は、分かる。
でも、
その“利益”が、
現金として、ここにない。
ふと、去年のことを思い出した。
決算が終わり、
税金の通知が来た日。
「……こんなに?」
思わず声が出た。
黒字だから、税金がかかる。
それは理解している。
けれど、
その支払いのとき、
通帳の残高は、
一気に心細くなった。
そのあと、
設備の修理が重なり、
材料の仕入れが続き、
気づけば、資金はギリギリだった。
「黒字なのに、苦しい……」
その感覚が、
また、胸の奥から顔を出す。
田中は、ノートを開き、
こう書いた。
売上
- 経費
= 利益
その下に、もう一行、書き足す。
利益
- 税金
- 設備投資
- 借入返済
= 現金残高
「……ああ、そういうことか」
黒字でも、
お金は出ていく。
しかも、
税金は、
後から、まとめて来る。
売上が入ったときには、
まだ払っていない。
だから、
「使っていいお金」
だと、錯覚してしまう。
田中は、通帳の数字を、
もう一度見た。
そこに並んでいるのは、
“全部使えるお金”ではない。
まだ払っていない税金も、
もう返すと決まっている借入金も、
全部ひっくるめた数字だ。
そのことに、
今さらながら、気づいた。
「……分かってなかったな、俺」
黒字=安心。
そう思っていた。
でも実際は、
黒字は、
責任の始まりでもある。
税金を払う責任。
お金を管理する責任。
その夜、田中は、
一枚の名刺を眺めていた。
以前、同業者の集まりで、
何気なく受け取ったものだ。
――税理士。
特に印象的な会話をしたわけでもない。
ただ、
「製造業、多いですよ」
そう言われたのを、
なぜか覚えている。
名刺を裏返し、
しばらく考える。
黒字なのに苦しい。
それを、
自分一人で解決しようとしてきた。
でも。
この違和感は、
誰かと一緒に考えるべきものなのかもしれない。
田中は、名刺を机の上に置いた。
まだ、電話はしない。
でも、
しまい込むこともしなかった。
黒字なのに残らない。
その理由が、
少しだけ、輪郭を持ち始めていた。
田中 恒一の財布は、ずっと一つだった。
独立する前から使っている、黒い革の長財布。
現金も、クレジットカードも、
仕事用も生活用も、全部そこに入っている。
「分けるの、面倒だしな」
それが、正直な理由だった。
この日も、午前中は工場で作業をし、
昼前に材料を買いに車を走らせた。
現金払い。
財布から、すっと札を出す。
午後、今度はスーパーに寄る。
夕飯の材料。
牛乳とパン。
同じ財布から、同じように支払う。
夜、家に戻り、通帳アプリを開く。
入金。
出金。
そこには、
仕事のお金と、生活のお金が、
何の区別もなく並んでいた。
「……どこからが、仕事だっけ」
自分でやっておきながら、
自分で分からなくなる。
会計ソフトに向かい、
今日の支出を思い出しながら入力する。
午前の材料費。
これは、間違いなく仕事。
昼のコンビニ。
弁当。
これは……?
工場で食べた。
でも、家でも食べる。
田中は、手を止めた。
財布が一つ。
通帳も一つ。
その状態で、
「これは仕事」「これは生活」
と切り分けるのは、
思っていた以上に、神経を使う。
「……俺、何を基準にやってるんだ?」
ふと、過去の自分を思い出す。
独立したばかりの頃。
お金が入るだけで嬉しかった。
通帳の残高が増える。
それだけで、やっていける気がした。
でも今は違う。
残高はある。
それなりに。
なのに、
「使っていいお金」と
「取っておくべきお金」
その区別が、つかない。
ある月、税金を払ったあと、
急に資金が足りなくなったことを思い出す。
「こんなに持ってたはずなのに……」
原因は、後になって分かった。
全部、同じ通帳に入っていたからだ。
生活で使っていいお金も、
税金のために残すべきお金も、
同じ“残高”として見ていた。
つまり。
自分のお金なのか、事業のお金なのか、
分からなくなっていた。
田中は、通帳の画面を閉じ、
深く息を吐いた。
「これ、どこかで線を引かないと……」
財布を見つめる。
長年使ってきた、慣れた重み。
でも、その便利さが、
今は少し、怖く感じられた。
そのとき、スマートフォンに通知が入る。
銀行からの案内だった。
「事業用口座の開設について」
偶然かもしれない。
でも、タイミングが良すぎた。
田中は、その画面を開いたまま、
しばらく動かなかった。
事業用の口座。
財布を分ける。
お金を分ける。
それは、
「面倒になる」
ことじゃない。
「見えるようになる」
ということだ。
何が残り、
何を守り、
何を使っていいのか。
田中は、画面を閉じる前に、
メモ帳を開き、
こう書いた。
「事業用口座、作る」
たった一行。
でも、それは、
今まで避けてきたことへの、
小さな一歩だった。
そして同時に、
頭の片隅に、
あの存在が、はっきりと浮かび始めていた。
――先生に、聞いてみるか。
まだ会っていない。
まだ話してもいない。
でも、
「一人で決めなくていいことがある」
そう思えるようになった自分に、
田中は少し驚いていた。
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